校長コラム

2023年3月31日

「ダンスのある人生」をあきらめない~前編~

Ti-ccha KID’S DANCE SCHOOLTi-ccha(ちっちゃ)こと小林仁美です。

私は今、年間1.2万人以上が通うキッズダンス専門スクールの経営者 兼インストラクターとして、全国各地での講演活動の講師として、3兄弟の母として、毎日忙しくも充実した日々を過ごしています。

 

今回は、「踊るのが大好き」だけが取り柄だった私の、怪我と隣り合わせだった日々をふり返ってみたいと思います。

 

私は、仕事人間の父、共働きの母の元、大阪で生まれ、大阪で育ちました。

 

 

ダンス人生で出会った「3人の先生」
 

「夢を与えてくれた先生」

 

母によると、幼い頃の私は「気づいたら1人で踊っている子」だったそうです。

4歳でバレエ教室に通わせてもらい、小学2年生の引っ越しのタイミングで、近くのダンス教室に通うようになりました。そこで、私の人生に大きく影響を与える1人目の先生との出会いがありました。

 

 

ダンスがある毎週火曜日が、私にとって1週間で一番楽しみな曜日でした。

ダンス教室には誰よりも早く行って、忙しい両親の代わりに、日常の出来事を先生に聞いてもらうのが楽しい時間でした。

 

そんな風に、毎週レッスン前、私1人としっかり向き合ってくれていた先生なのに、ダンス教室主催の発表会があると、いろんな拠点のクラスから生徒がたくさん集まり、ステージで輝いていて「先生ってすごいんだ!」と思いました。

 

さらに、とってもキレイな娘さんが2人もいて、好きなダンスのお仕事をしながら、お母さんもしています。

「こんな先生に私もなりたい!」と、将来の夢を持ちました。

 

中学生でもダンスを続けていた私ですが、1歳から患っていたアトピーがひどくなり、鏡を見るのもつらい自分の状態に、家から出られなくなります。

 

1年くらいかかり、ようやくアトピーのひどい症状から脱して、学校やダンスにまた通い出しました。

 

年齢が大きくなったことで、ダンス教室は、夢を与えてくれた先生の元を旅立ち、大人たちが通うクラスに変えました。

 

私は中学生にしては体が小さく、必死に大人のまねをして踊っていました。

そして、レッスン中のふとしたささいな動作の時に、初めての膝の怪我を経験します。

 

その時は、一時的な怪我と、気にも留めず月日が流れます。

 

中学校時代も、小学校時代から変わらず「ダンスの先生になる」のが夢でした。

「ダンスが上手になりたい!」その思いで、高校はダンスの強豪校に進学しました。

 

強豪校ですから、朝・昼・晩とものすごく練習するんです。

高1の頃には、使いすぎで膝がよく腫れるようになりました。

中学生のとき、初めて怪我をしてしまったあの右膝です。

 

負けずぎらいの私は、自分のポジションを奪われるのがいやで、相当無理をしていました

本番前にまた怪我をして、90度以上曲がらなくなった足でステージに立ったこともありました。

 

そこで私は考えました。

「この練習量の部活に所属したままでは、私の膝がどんどん悪くなってしまう。」

 

「ダンスの先生になりたい」という夢は変わりません。

先生になるなら、プロダンサーの経験が必要だと考えるようになり部活の代わりに、高校のうちになんとかキャリアを積みたいと思った私は、ハードな練習の部活を1年で退部し、オーディションを受けるようになります。

 

「ダンス人生の岐路で出会った先生」

 

そんな中、高2に上がる春休み、つかこうへいさんの舞台の書類選考に受かった私は、自宅で本選の課題であるダンス練習をしていました。そこで、大きな怪我をしてしまったんです。

右膝「亜脱臼骨折」という診断でした。

 

この時に人生で初めての手術を経験します。

全身麻酔の同意書にサインをする母の不安そうな顔は、今でも覚えています。

 

ただ、どんな怪我をしても、手術をしても、私の頭の中には「いつからまた踊れるの?」そんな気持ちしかありませんでした。

 

ところが、術後に初めての診察で告げられたのは、私が一番願っていない診断でした。

 

「これからも踊りを続けて、踊ることを職業にすると、いつか歩けなくなって、車椅子生活になるかもしれない。医師として今、踊ることは認められない」と、ドクターストップを宣告されてしまいます。

 

当時大阪にあった有名な球団のチームドクターとして、「膝の名医」といわれていた先生からの診断でした

 

でも実は、このことを、母は私より先に聞いて知っていたのです。

 

診察室で先生は、母に問いかけます。

「お母さん、まだ言っていなかったんですか?」

 

先生の前で無言の母は心の中で、

「この子からダンスを取り上げたらどうなるんですか? 何度怪我をしても、ずっとダンスを踊ってきた子なんです。言っても聞かないですよ」

そんな風に言っていたように思います。

 

そして、踊り続けた先に、娘が車椅子になる生活も自分が一緒に背負う覚悟をしてくれていたとも思います。

 

母の強い心がそばにあったからこそ、私は、自分を曲げないで、ここまでダンスを続けてこられたのだと、改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

大きな母の愛のそばで「いつか踊れなくなるなら、それまでは踊ろう!」

私はそんな思いで、ダンスの先生になるためには、まずはプロダンサーになろうと、大阪芸術大学舞台芸術学科ミュージカルコースを目指すことにしました。

 

そして、無事に合格することができたのです。

ところが、ここでまた試練がありました。

 

芸大は、日本中から私と同じように幼少期からずっとダンスを頑張ってきた精鋭たちの集まりです。

そんな仲間の中、激しい練習を日々続けていたら、またの状態が悪化してしまったんです。

 

「芸大は本当に素晴らしい場所だし、まだまだ仲間と頑張りたい……でも、ここで膝を潰すわけにはいかない」

 

わずか1年で、芸大を去ることにしました。

 

そこからの私は、毎週のように東京に通い、さまざまな先生に習い、将来のためどのようなダンススタジオがあるか視察を続けました。

 

自分の膝の状態に合わせながら、東京と大阪を行き来し、レッスンを続けていた頃、大阪にある某有名テーマパークのパレードダンサーのオープニングメンバーに、合格することができたのです。

 

プロダンサーとしての契約書を手にし、喜んで練習をしているとまたもやひどく膝を痛めてしまいます……。

 

「こんなにも早く!? 私、まだ21歳……もう踊れなくなってしまうの? まだダンスの先生の夢も叶えていないよ……」

この頃には、歩いていても膝が外れるほど、右膝の靭帯はボロボロになっていました。

ダンスを踊る時には、テーピングで膝をガチガチに固定して踊り続けていました。

 

パレードダンサーの契約も辞退し、失意の中、私が向かった先は、高校のときドクターストップを宣告された医師のところです。

この方が、私の人生を変えた2人目の先生になりました。

 

なんでもズバッと言ってくれる先生です。

久しぶりに受診すると

「あんた、まだ踊ってたんか!」と、診察室で怒鳴られました。

 

でも、そこまで言われてもまだ踊る私に、先生も私のダンスへの思いを理解しようとしてくれたのかもしれません。

 

先生は、ある提案をしてくださいました。

 

「最初の診察から数年経過していたので、一つだけ試せることがある。ただ、前例がないねん。これで必ずダンス復帰ができる保証はない。それでもやってみるか?」

 

今は、時代が進んだので色々な手術があると思いますが、その当時スポーツ復帰の前例はないものの、ダンス復帰できるかもしれない唯一の方法として提案されたのが、「スネの靭帯を膝に移植して固定する手術」でした。

 

この手術は、1回目の手術とは比べものにならず、術後、足が全く動かせない。

痛みに耐えられない。

「こんな足でどうやって踊るんだ!!!」

当時21歳。

また踊れる自分を想像してチャレンジした手術は、私に試練しか与えませんでした。

 

さらにもう一つ、心から反省したことがありました。

その当時、祖父が他界したことで、我が家は祖母と一緒に生活をしていたのです。

私より背が低い、背中の曲がった祖母。

そんな祖母が、歩けなくなり失意のどん底にいる私のお見舞いに来て、車椅子を押してくれました。

何も言わず、とても穏やかに。

 

車椅子に乗りながら、祖母に見えないように涙を流しました。

「なんて家族に迷惑をかけてしまっているんだ……」

 

ドクターストップがかかっても、自分がやりたい気持ちのまま貫き通したダンスへの道。手術して、本当に車椅子生活になって、歩けない足では家族にどれだけ協力してもらわないと生活できないのか、ようやく思い知りました……。

 

多くの人は、ここで反省して、もう家族に迷惑はかけないと、踊らない人生を歩むかもしれません。

 

でも、私はどうしても「ダンスのない人生」が想像できなかったんです。

そんな私に救いの手を差し伸べてくださったのが、3人目の先生です。

 

「正しい体づくりを伝授してくれた先生」

 

私がダンスに復帰できたのは、3人目の先生との出会いのおかげです

芸大受験の頃からお世話になったこのダンスの先生、ご自身もダンスで怪我を経験されていました。

 

「私は本当は踊れない体。でも踊れている。仁美ちゃんも大丈夫! 私が踊れるようにしてあげる!」

そんな希望に満ちた言葉をくださいました。

 

そして、私はまだ松葉杖のままでしたがダンススタジオに通い続け、正しい体づくりのノウハウを学び、できるトレーニングから開始しました。

 

トレーニング再開を急ぐのは、プロダンサーとして、一番目標にしていたオーディションが半年後にあったためです。

 

術後、半年くらいはダンスは踊れないと言われていましたが、リハビリとトレーニングを重ね、半年後、見事そのオーディションのダンス審査に合格することができました。

 

その後は、拠点は大阪となりましたが、NHK大阪ホールのこけら落とし公演・大阪ドームでのバックダンサー・生放送でのダンサー出演……。

さまざまなプロダンサーの経験をさせていただきました。

 

そして、夢だった「キッズダンスの先生」としても活動を始めることができました。

 

大手のスクール・小さなスクールの経験を経て、自分の名前でスクールを立ち上げることにしました。

 

ダンススクールの立ち上げ

 

Ti-ccha KID’S DANCE SCHOOL

Ti-cchaと書いて「ちっちゃ」と読みます。

 

理由は単純。

私が150センチでちっちゃいから(笑)。

でも、この小さな体が私のトレードマークです!

 

ダンサーとして、小さな体は非常に不利です。

でも、私はダンサーとして活動ができました。

 

コンプレックスと思わずに「小さな体なのに、パワフル!」そうして、強みにしてきたこの小さな体を、そのままスクール名にしました。

 

指導で大切にしていたことは

「怪我をしない体づくり」

 

ーー子どもたちに、夢を叶えられる体をつくってあげたいーー

 

自身の経験から、

「好きなことができるのも、健康な体があってこそ」

その信念を強く持っていたのです。

 

スクールを開いたのと同じ頃、私の怪我の体験談を聞いた方が、講演会講師にスカウトしてくださいました。

 

25歳での講演会講師デビュー。

当時としては、全国最年少だったのではないかといわれています。

 

全国各地を回り、1回の講演での最高聴講者数は約1800人。

3階席まである大ホールでも講演をさせていただきました。

 

伝えたい思いが膨らむことで、自分にもっともっと知識も経験も欲しいと考えるようになりました。

 

そして、20代後半の私は、たくさんの資格の勉強を始めます。

 

健康な体は、健康な心とも密接な関わり合いがあると、体づくりに留まらず、上級心理カウンセラーや、チャイルドコーチングアドバイザーなど、自分が学びたいと思った勉強に取り組み、独自の指導スタイル・講演スタイルを築き上げていきます。

 

この当時は、インストラクター・講演会講師以外に、オフィスでも働き、面接担当・人材研修・企画・営業も経験させていただきました。

ここでの経験が、現在のスクール経営につながっています。

 

他にも、ダンスができなくなった時に仕事がなくなってはいけないと思って始めた「司会業」も順調で、週末はブライダル司会の仕事をし、休みなく、大好きな仕事に邁進していた記憶が残っています。

 

ここまでお話ししたような「自分の思いを実現しようという行動力」は、仕事人間の父から学んだと感じています。

 

父は「仁美が正しいと思い、筋が通っていれば、周りのみんなが反対しても、お父さんは絶対応援する!」いつもそう言ってくれました。

その言葉の通り、私が信念を持って行動することに、一度も反対をしたことはありませんでした。

 

そして口癖は「自惚れるな! 自惚れた時点で、成長は止まる」

 

今は、天国へと旅立ったそんな亡き父のおかげで、私は学び続け、「知らないことがたくさんある自分は、まだまだ成長過程! 謙虚でいよう」と考える癖がつくようになりました。

後編につづく)

 

◆Ti-ccha KID’S DANCE SCHOOL

 

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